離婚

 帰宅したとき、いつもは一瞥だにしない仏壇の写真が目に入り、ふとばあちゃんは最後まで「じいさんと離婚したい」と言っていたことを思いだした。

 

 芋づる式に記憶が蘇り、今日はばあちゃんの命日だったことに気づく。

 

「じいちゃん、じいちゃんとばあちゃんって仲悪そうだったけど、実際そうでもなかったんでしょ? 何だかんだ言って、最後まで添い遂げたわけだし」

 

 夕食のサンマを突きながらそう言うと、そのサンマをぐちゃぐちゃのペースト状にしたものを食うじいちゃんは、

 

「ばあちゃんはじいちゃんが大嫌いだったんじゃ」

 

 悪びれもせずにそう言った。

 

「給料はパチンコにつぎ込むし、ばあちゃんを殴ったこともあるでな。女も作ったし、家に帰らなんだときもあったもんじゃ」

 

 なんという極悪じじいだ。

 仲が悪そうに見えても、実は――というほのぼのエピソードが聞けるかと思えば、本物の離婚推奨案件だったとは。

 

「……なんでばあちゃんは離婚しなかったんだろうね」

 

 ひとりごとをつぶやくと、じいちゃんは、

 

「そこが俺の賢いところよ」

 

 なぜか偉そうに開き直った。

 

「そんなこともあろうかと、見合いの時に条件をつけたんじゃ。文字を書けない女を頼むってな」

 

「どういうこと? 文字が書けないほど学がなければ、離婚なんてできないってこと?」

 

「いやいや」

 

 じいちゃんは皺だらけの手を顔の前で振った。

 

「もっと単純なことよ。――文字が書けなけりゃ、三行半も書けないだろう?」

 

 ひゃっひゃっひゃ、じいちゃんは笑って――サンマのペーストを誤嚥した。ゲホゲホとむせ始める。

 

「ま、茉莉……水、水を……」

 

 じいちゃんが苦しそうに呻く。

 

「ばあちゃんがあの世で呼んでるんでしょ」

 

 私はそれを無視して、白いご飯を頬張った。

 そして、このままじいちゃんが死ねば、命日がまとまって楽だなあと、じいちゃん譲りの極悪さで考えたのだった。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム

ヨイトマケの唄

 2トントラックの車内には、桑田佳祐の歌声が響いていた。

 田舎道の夜は暗い。都会育ちの悠太は内心その闇に怯えていたが、ハンドルを握る先輩、中里は慣れた風にアクセルを踏み込む。

 きついカーブを曲がるたび、荷台がゴトゴトと音を立て、座席のスプリングがキイキイ軋む。

 

「いまも聞こえる、ヨイトマケの唄――」

 

 不意に中里が口ずさんだ。

 旧式の車載プレーヤーにCDを突っ込んだのは中里だ。当然、知っているのだろうが、悠太は初めて聞く曲だった。

 

ヨイトマケの唄だよ。知らねえ?」

 

 戸惑いを察知したのか、中里が鼻から息を抜くように笑った。「俺、好きなんだよ、これ」

 

「そうなんすか……で、ヨイトマケって何すか?」

 

「お前、そういうこと聞く?」

 

 中里は再び笑った。

 悠太をバカにしているわけではない。笑うのは彼の癖なのだ。

 こうやって笑ってると親父に殴られる時間が少なくて済んだからさ――中里はやはり笑いながら、悠太にそう説明した。

 だから、お前も殴られたらとりあえず笑っとけ、最小限の被害で済むから、と。

 

 それを聞いた悠太は、そんなことよりも最初から殴られないようにすればいいじゃないかと思ったが、先輩の言うことなので黙って頷いた。

 それに、この世には理不尽なことも多い。それくらいは高校を中退した彼でも知っていることだった。

 

ヨイトマケの意味なんてどうでもいいんだよ。この歌だよ、この歌。いい歌なんだって。昔の歌だけどさ。

 まず、貧乏な家のガキがさ、学校でいじめられるんだよ。で、ガキは慰めてもらおうと思って、母ちゃんの仕事場に行くんだよ。そしたらさ、そこで母ちゃんが超働いててさ――男に混じって土方やってんだよ」

 

 中里は、まるで自分がそのガキ・・であるかのように熱のこもった口調で言った。先の見えないカーブにハンドルを切る。

 

「お前、わかる? そういうの? 俺、親父が土方やってたからさあ、よくわかんだよね。

 まあ、俺の場合は親父だけど、こいつの場合は母ちゃんなわけじゃん。母ちゃんが男に混じって、すっげえ働いてるんだぜ? 超カンドーだろ?

 で、このガキはそれ見てどうしたかって、泣くのやめて学校に戻るんだよ。母ちゃんを楽にさせてやるには、勉強しないとダメだって言ってさ。そんで、最後にはエンジニアになるんだよ。エンジニアになって、死んだ母ちゃん見てくれって、立派になった姿見てくれって言うんだよな。

 俺、そこでいつもカンドーしちゃってさ。俺、できなかったから、勉強なんてさ。バカだからさ。だから、何つーか、こう……」

 

 ずずっ、鼻を啜り、中里は口を閉じた。車内に桑田佳祐の歌声が戻った。

 母ちゃん見てくれ、この姿――そのフレーズが繰り返されると、中里はひときわ大きく鼻を啜った。

 悠太も歌詞の光景を想像するようにCDプレーヤーを見つめていたが、彼の脳裏に浮かんでいるのは別の光景だった。

 

 それは彼の父親のことだった。

 

 悠太の父はシステムエンジニアで、二年前、残業中に過労で倒れ、意識が戻らないまま搬送先の病院で死んだ。40歳だった。

 母は当然の権利として労災を求めたが、会社は様々な理由を探しだし、支払いを拒んだ。

 そうでなくとも、大黒柱を失った一家が転落するのはあっという間だった。

 

 兄弟の給食費の支払いすら滞る有様に、悠太は高校を辞め、働いた。しかし、雀の涙ほどの賃金に、彼が行き詰まりを実感するのには時間がかからなかった。

 バイト先で知り合った中里から、稼げる仕事を持ちかけられたのはそんなときだった。

 

「よし、着いたぞ」

 

 いつのまにか平静に戻った中里が、トラックを路傍に止めた。昼間のうちに下見しておいたそこには、真新しい農業ハウスの資材が無造作に置いてあるはずだった。

 

「手早くやるぞ」

 

「はい」

 

 悠太は中里と協力して、資材をすべてトラックに積み込んだ。

 今夜の収入は一人2万。積み込むもの・・・・・・は、ハウス資材から、一戸建ての建築資材、それから工事現場のコード類、珍しいところでは収穫期の果物などのときもある。

 事前に何を積むかは知らされない。中里を通してくる指示に、悠太は従うだけだ。

 

 と、資材をそっくり積み終えたときだった。空き地の向こうに電気がつき、「何をしてる!」大声と共に、懐中電灯の光がこちらに走ってきた。

 

「まずいっすよ」

「逃げるぞ!」

 

 中里が運転席に乗り込み、悠太も慌てて助手席に飛び込む。慌てているせいか、エンジンがなかなかかからない。

 懐中電灯がすぐそこまで近づき、息を切らせた男性の顔がはっきりと見えた瞬間、やっとトラックが発進する。

 みるみるうちに男性が遠ざかる。やったな、中里が笑いながらバシバシとハンドルを叩いている。桑田佳祐が歌い始める。悠太は目を閉じ、シートにもたれかかった。

 まぶたの裏に、必死の形相をした男性の顔が浮かぶ。と、それがなぜか死んだ父親の顔に重なり、悠太を見つめた。

 

 実は、彼が過労死する直前、悠太は父親に着替えを届けるため、会社を訪ねていた。

 

 案内されたのは冷房がよく効いた綺麗なオフィスで、そこで父親は画面をぼうっと見つめ、キーボードの上で指だけを動かしていた。

 父親の働く姿を見て、悠太は感動しなかった。

 ちゃんと勉強をすれば、こういうところで働けるのだなと、ぼんやりと思っただけだった。楽な仕事ができるのだと思っただけだった。

 

 けれど、父親は死んでしまった。

 何も残さず死んでしまった。

 

「いやあ、今回は危なかったな」

 

 興奮したように中里が言う。その顔は見なくとも、笑っていることがわかる。

 

「ヤバかったっすね」

 

 悠太もくちびるに笑いを浮かべた。

 

 闇に、ヨイトマケの唄が流れている。

 

 その歌を聞きながら、悠太は闇の向こうに目を凝らした。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム

夕焼け

 声をかけられ、僕は慌てて涙を拭いた。

 

 目の前では、大きな夕日が沈んでいくところだった。

 

 夏休み最後の夕焼け。

 空は燃えるような朱に染まっている。

 雲も、遠くを飛ぶ飛行機までもが真っ赤に見える。

 

 言われたとおり、それはいままで見た中で一番綺麗なんじゃないかと思うほどの夕焼けだった。そして、悲しい夕焼けだった。

 

 なぜ、夕焼けは悲しいのだろう――その答えを知りながら、僕はじっと空を見ていた。

 

 それはきっと、夕焼けが終わり・・・だからだった。

 空の端から漏れ出した夜の青。その暗い色が朱をじわりじわりと侵し、ついには闇一色に染めてしまう。

 

 僕の夏休みも同じだった。

 あいつらから逃れたのもつかの間、僕は再び同じ教室という檻に放り込まれる。

 そしてそこにも終わり・・・しかない。

 

 でも、そんなのはもうゴメンだった。

 だから、僕は自転車を漕ぎ、はるばるここまでやってきたのだ。

 小学校の遠足で来たことのある、町で一番高い場所――崖にそそり立つような展望台に。

 

「こんなに綺麗な夕焼けはね、明日はきっといいことがあるよっていう神様からのお知らせだよ」

 

 泣き顔を見られたくなくて、ちらりとだけ見たその人は、杖をついたおばあさんだった。

 その向こうに、お仲間らしいご老人たちも見える。

 世話係のような若い人もいるから、老人会の観光か、それとも老人ホームのサービスの一環か何かなのだろう。

 

「……いいことなんて、ないです」

 

 反発するように、思わず僕が言うと、

 

「あなたには未来がわかるの?」

 

 おばあさんは聞き返した。

 

 それが少しでもからかいを含んだ調子であったなら、僕は無視を決め込んだだろう。

 もしかしたら、今この瞬間にためらいをかなぐり捨て、崖下に飛び込んだかもしれない。

 そうする準備はとっくにできている。だから、いつそうなった・・・・・としても、構わない状態ではあったのだ。

 

「未来なんか、わからないけど……でも明日起きることくらいはわかります」

 

 僕は答えた。そして、自分の言葉にぞっとし、決意をより一層強くした。

 すると、おばあさんはぽつりとつぶやいた。

 

「いいえ、明日のことだって誰にもわからないわ。だって私、いまのいままで、もう夕焼けは見られないものだと思い込んでいたんだもの。……子供だったころ、綺麗だけど悲しいような気持ちで眺めていたあの夕焼けを」

 

 変なことを言う、僕は顔をしかめた。

 夏の間、夕焼けなんか見飽きるほど見ることができる。それを、死ぬまで見られないだなんて大げさもいいところだ。

 しかし、おばあさんは笑うように続けた。

 

「私の頭の中に残っているのは、夕焼けであって夕焼けではない光景なのよ。あれはもう、70年も前になるのねえ。

 焼夷弾が町を焼いて、空を赤く染めて。あの下で人が死んでいることを思わなければ、それは綺麗な光景だったわ。まるで、今日の夕焼けのように」

 

 瞬間、どこかで見た映像が、脳裏に蘇った。

 白黒の空を飛ぶアメリカの飛行機。画面のノイズのように落ちていく爆弾。あれは確か「しょういだん」という名前だったのを、耳が覚えている。

 

 テレビの情報だった戦争が、現実となって僕の前に形を成そうとする。白黒の映像が色に染まる。

 夕焼けのような戦争の風景。

 けれどそこに爆弾の弾ける音は聞こえず、僕が眺めているのは、やはり70年後の平和の風景なのだった。

 

「……戦争の話をされても」

 

 僕は怒ったようにつぶやいた。けれど、本当のところ、自分がどんな気持ちなのかはあやふやだった。

 

 いまは戦争時のように大変じゃないんだからと揶揄されているような気分にはなったが、おばあさんの口調はちっとも押しつけがましくなかったし、だからといって平和な自分の身を反省し、家に帰る気にもなれなかった。

 

 けれど、子供っぽい僕は、苛々の原因もわからずに続けた。

 

「それとも、戦争のトラウマで夕焼けが見られなくなったけど、今日見ることができた――だからそういうこともある、僕も頑張れってことですか? 明日は何かいいことがある? そんなの嘘です。絶対に――」

 

「そうじゃないのよ、気に障ったらごめんなさいね」

 

 すると、おばあさんはしおらしく言った。それから詫びるように背を向け、

 

「ただ……今日の夕焼けは、あなたが見せてくれたんだと、そう思ったものだから。……きっとあなたは似ていたのね。まだ何も知らないころ、夕焼けに悲しさを覚えていた昔の私に」

 

 ありがとう、そう言い残すと、杖を持ったおばあさんは去って行く。

 

 僕が夕焼け・・・・・を見せた・・・・

 僕は意味がわからずに、その後ろ姿を見送った。

 そろそろ行きますよ、世話係が老人を集めている。と、おばあさんの杖を見て、僕はハッと息を呑んだ。

 

 その杖は、白杖だった。ありがとう、おばあさんの声が水底できらめくように小さく響いた。

 

 僕はゆるゆると夕焼けを振り返った。そして、紫に変わりゆく空に、僕には想像もつかない彼女の人生を思った。

 紫色は濃紺へ変わり、町にはぽつぽつと光が灯る。

 僕は光に背を向けると、展望台の階段を降りた。自転車に乗り、坂道を下る。車輪はどんどん加速して、まだ温い風が頬をすぎていく。

 

 僕は、明日起こることを知っている。

 

 あのおばあさんが七十年間、夕焼けであって夕焼けではない光景を見続けたように、僕に立ちはだかるものにも変化はないかもしれない。

 

 けれど、それはいつか本当の夕焼けに変わる。変わらないかもしれないけれど、変わることだってある。

 

 僕は自転車を走らせ続けた。

 闇に変わってしまった夕焼けは、しかし、僕の胸に焼きついていた。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム

正しい言葉

「学校の図画工作に『クレパス』が必要って、どういうことですか! いいですか、『クレパス』はサクラ社の登録商標ですよ! 学校がどこそこの品物を買えって、業者指定していいんですか! これは教育と業者の癒着だ! ゆゆしき問題だ!」

 

 図画の先生と、それを怒鳴りつける父親の間に立ち、一人の神様がうんうんと頷いていた。

 

 彼は言葉を司る神様。

 

 もちろん、神様なのだから、人間にその姿は見えない。

 彼は、正しい言葉を話す人には祝福を、そうでない人には呪いをかけるのが仕事だった。

 

「え……でも、クレパスって言いますよね。その……サクラ社のものではなくても……」

 

 若い図画の先生がたじたじとする。

 その言葉に、神様は思いきり顔をしかめ、その気配を感じたかのように、父親も大声で怒鳴った。

 

「だから違うって言ってるでしょう! 『クレパス』は登録商標なんです、登録商標! 言葉の意味、わかりますか? まったくもう、これだから教師は……」

 

「すいません。……でも、それなら何て言えばいいんですか?」

 

 先生が聞き返す。神様と父親は同時にため息をついた。

 

「『オイルパステル』です」

 

「オイル……」

 

「『オイルパステル』。わかりましたか? まったく、わかったらちゃんと生徒に伝え直して下さいよ。きちんとした言葉を知らなかったという謝罪もつけて」

 

「はあ……すみませんでした」

 

 先生が小さく頭を下げる。しかし、その顔に反省の色はない。

 

 この図画の先生には、手に取ったオイルパステルが必ず折れる呪いをかけてやろう――言葉をないがしろにされた神様はそう思った。

 それから父親を振り返り、言葉を大切にする彼にはどんな祝福を与えてやろう、そう思った時だった。

 父親がふと思いついたように、手に持っていたプリントを広げた。そして、

 

「……セロテープも必要なのか。家にあったかな」

 

 と、つぶやいた。

 

 瞬間、神様は激高し、彼にテープと名のつくものすべてがグチャッとなり、うまく切れなくなる呪いをかけた。

 

 なぜなら、「セロテープ」はニチバン社の登録商標であり、正しくは、「セロハンテープ」であったからだ。

 

 まったくどいつもこいつもふざけおって――神様はブツブツ言いながらも、正しい言葉を使う人を求めて、再び空へ舞い上がっていった。

 

 先生と父親の二人は、呪いをかけられたことなど知るよしもなかったが、しかし、逆に祝福を与えられたとしても、それが果たして彼らの人生にプラスであったかどうかは、その呪いのせこさを見るに、どうにも期待できそうになかった――という事実は、私とあなただけが知っていることなのである――。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム

ポエミック・ライフ

 ――――無駄。

 

 辞書には「役に立たないこと」って書いてあるその言葉。

 

 でも、本当?

 

 無駄って、本当にいけないこと?

 

 ううん、きっとそんなことない。

 

 世の中に、無駄なものなんてきっとない。

 

 無駄に見えても、それはきっと何かにつながってる。

 

 世界の輪に、つながってる。

 

 うん、きっとそうだと思う。

 

 だから、今日は自分の感覚に導かれるまま、「無駄」なことをやってみよう。

 

 ……そんなの、「無駄」?

 

 いいじゃないか、そんな「無駄」な一日があったって。

 

 「無駄」から見えてくる何か。

 

 わたしは、それを見つけたいんだ。



        *

 

「ただいま」

「あ、おかえり、お父さん」

 

 夜の八時。帰宅する父親を待ちわびていた子供が、うれしそうに玄関に飛び出した。

 

「今日の晩ご飯、なに? ポテトサラダ、買ってきてくれた?」

「ああ、もちろん。……でも、その前に」

 

 父親はしゃがみ込み、いつものように問いかけた。

 

「お母さん、今日は何してた?」

「えっとね……」

 

 子供はリビングを振り返り、そこに母親がいないことを確認すると、小声で答えた。

 

「一日中トイレにこもって、千切ったトイレットペーパーを少しずつ水で流してる」

「……そうか。たしかに『無駄』だな……」

 

 帰りの電車内で確認したツイッターに書かれていたポエムを思いだし、父親はつぶやく。

 それから、一つため息をつくと、

 

「ポテトサラダ食べようか」

 

 子供を促し、疲れた足取りでリビングへ入っていった。

 

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お守り

 冷凍庫の奥に、それは静かに眠っていた。

 

 それがあたかも忘れ去られたように眠っていられるのは、一重にこの家の主婦、弓子のおかげだ。

 

 弓子の二歳になる息子の拓海は、重度のアレルギーで、医者もさじを投げ出すほどのものあった。それほどに彼のアレルギーはひどく、例えば布団の埃一つでひどく咳き込み、水道水の塩素に触れた肌はすぐにぼろぼろになった。

 

 加えて拓海は食餌性のアレルギーもひどく、パン屋の前を通るだけで、そこに舞う微量な小麦に反応し、みるみるうちに顔を真っ赤にして倒れてしまうほどであった。そんな拓海に微量でもアレルゲンの入った食事を与えればどうなることか――。

 

 だから拓海の食事をつくる作業は、当然ながら恐ろしいほど慎重を極めた。けれど、大事な息子の命を守るためだ、弓子はそう自分に言い聞かせる。

 

 いろいろな食品が陳列されているスーパーに、弓子は拓海を連れて買い物に出かけられるわけもなく、彼女は主に通販で食料を買い込んだ。そして、荷物が届けば、その荷物に付いているかもしれない微量のアレルゲンのために、何度もダンボールを水ぶきしてから部屋の中へ持ち込み、やっと中身を取り出すのであった。その作業はとても面倒だってけれど、大事な息子の命を守るためだ、どんなに疲れていても、弓子は何度もそう自分に言い聞かせる。

 

 だから、このW食品会社製のアレルギー食材完全除去を謳った『冷凍お子さまプレート』も、弓子が注文をし、彼女のその手で冷凍庫の中に仕舞われたものであった。

 

 本当なら、弓子はそれを何時何時でも――今日は風邪気味である、とか、食品制限付きの料理をするのに少々疲れてしまったというほんの些細な理由で――凍ったそれを冷凍庫の奥から取り出し、電子レンジに入れ、幼い息子の拓海に与えてもいいはずだった。けれど、彼女はそれを使うことはしなかった。それは弓子にとって、お守りのようなものだった。だから、彼女は神経をすり減らしながらも手づくりの食事をつくり、部屋は塵一つないほど完璧に掃除をした。

 

 W食品の冷凍食品にアレルゲンが混入したとのニュースが流れたのは、そんなときだった。

 

 弓子は、リビングから聞こえるそのニュースをぼんやりと聞いていた。今日も弓子は朝から少しの埃も立たぬように完璧に掃除をし、食事のメニューを決め、そして大量に届いた荷物の水ぶきがやっと半分ほど終わったところだった。

 

 いつもの彼女ならは、すぐさま冷凍庫に走り、中で眠っているそれが、回収の対象商品なのかきちんと確認するはずだった。もし、拓海がそんなものを口にしたらたちまちのうちに彼は呼吸困難を起こし、そして――。

 

 けれど、いまは水ぶきの途中だった。部屋の中へ入るには、外に出たことで服についたかもしれないアレルゲンを取り除くために、上から下まで着替えてシャワーを浴びなくてはならないし、そんなことをしていたら食事をつくる時間が無くなってしまう。それに何より、彼女は疲れ果てていた。

 

 彼女は冷凍庫に目を向けることなく、せっせと荷物を拭き、玄関を拭き、それから食事作りに取りかかった。

 

 だから、それは回収対象のものかわからないまま、冷凍庫の中で眠り続けていた。そこに拓海を死に至らしめるアレルゲンが入っているのか、それとも入っていないのか、それはまだ誰にもわからない。

 

 いまは、まだ。

 

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つぶやかずにはいられない

「いや、それにしても本当になんなんだろうなあ、この部屋。壁も天井も真っ白だし、昼間のように明るいが、窓も照明器具も見当たらない。なのに……不思議だなあ、本当に不思議だ」

 

 僕はつぶやくのをやめると、急いで唾を飲み込み、乾いたくちびるを湿らせた。それから間を置かず、

 

「そもそも僕は何をしてたかというと、会社帰りだったんだよなあ。今日も残業で終電に乗って、最寄り駅から歩いてたんだ……駅から家までは歩いて20分。ちょっと遠いけど、薄給なんだ、仕方ない。家賃の安いところに住まないと、やってけないからなあ」

 

 溺れる人間が息継ぎをするように、息を吸い込む。それからやはり間を置かずに、

 

「今日は疲れたから、コンビニにも寄らずに帰ろうと思ったんだ。だから、表通りを歩かなかった。暗い裏道を歩いたんだ。女性なら怖いかもしれないけど、僕は男だから平気だし、そっちのほうが少し近道だから……」

 

 乾燥した部屋の中でつぶやきつづけていたからだろう、咳が出た。止まらない。

 やばい、そう思って、部屋の隅をちらりと見る。動いている・・・・・。僕は無理をして、

 

「い、家に帰ったら……ゲホッ、ゲホゲホ、や、やろうとしてゲホッ、たんだ、その、ゲーム……ゲホッゲホッ、ゲームを……」

 

 やばい。咳が止まらない。

 そして、どうやらあいつは・・・・咳では止・・・・まらない・・・・。じりじりと近づいてくる。

 

 ――何か、言わなければ。

 

「ゲームは、ゲホッ、まっ毎晩してるから、グエッゲホッ……プレイしないと眠れない。そうじゃないと……ゲホッゲホゲホ……」

 

 だめだ、喉の粘膜が張りついたようになり、これ以上は何も言葉が出てこない。

 

 あいつ・・・が近づいてくる。

 

 頭部の面積に対して大きすぎる口を開き、じりじりと向かってくる。

 初め――突然、夜道で光に包まれ、この白い部屋に連れてこられたとき、あいつは部屋の隅にうずくまっていた。

 そして、僕を見た。何だっ、震え声でつぶやいた僕に、ピタリと動作を停止した。しかし、沈黙が続くと、再びじりじりとこちらに向かって動き出した。

 

 つぶらな目が僕を捉え、人間ひとりを丸呑みできるほどの大きさの、ブラックホールのような口が迫る。

 

 あいつ・・・に触れられたら、どうなるのだろう。

 

 激しい咳をしながら、けれど、僕はその結末を既に知っているような気がしていた。

 

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