読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

理想のシチュエーション

 ごつごつとした岩場。その崖下に荒れ狂う波。吹きすさぶ海風にさらわれる女の長い髪。近づいてくるトレンチコートの男。

 

「そう……私よ。あの男を殺したのは、私」

 

 瞳は泣き出しそうに、けれど口元には懸命に笑みを浮かべ、女が言う。

 

「私の過去を知ったあいつは、秘密を夫にバラすと言ってきた。そんなことされたら私は終わりよ。積み上げてきたキャリアも、夫との結婚生活も、すべてを失うの。この気持ち、刑事さんにわかる? わかるはずないわ、決してわかるはずは……!」

 

「うん、まあ、わかんないけど」

 

 刑事と呼ばれた男は苦笑した。

 

「たしかに二時間ドラマで犯人が追い詰められるシチュエーションに似てるけど。けど、いきなり芝居に入られても、俺も困るって言うか……ほら、人が見てるし」

 

 少し笑いながら彼らを見る別のカップルを気にして、男が言う。するとさっきまでの悲愴さはどこへやら、真奈美は照れ笑いをして、

 

「えー、でもこの景色を見た瞬間、私は犯人だ! ってひらめいちゃったっていうか……やりたくなるじゃん、こういうの」

 

「まあ、真奈美がシチュエーションに弱いのは知ってるけどさ」

 

「そうだよ。啓太だって、それを利用したくせに」

 

「ん? 何の話?」

 

「もう、とぼけないでよ。夜景の見えるレストランで告白してきたのはそっちでしょ。あれだって、シチュエーションに流されてOKしちゃったけど、あの瞬間まで、啓太のこと、何とも思ってなかったんだからね」

 

「俺の作戦勝ちだな」

 

 啓太は笑って――ひょいと低い柵をまたぐと、崖の下を覗き込んだ。

 

「おー、すごいな。落ちたら死体も上がらなそうだ」

 

「ちょっと、危ないよ」

 

 真奈美はその無防備な啓太の背中を振り返って――ふと辺りを見回した。

 さっきまで散歩していたカップルはいない。ほかの人影もまったく見えない。

 

「すげえなあ……」

 

 啓太はまだ崖下を覗き込んでいる。

 真奈美の喉が、ごくりと鳴った。

 これは、理想のシチュエーションじゃないだろうか――――。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム