夏の果て

 夏の果てに、彼女はいる――。

 

「じゃ、行ってくるわね」

 高校生になった娘を連れ、妻が出かけていく。小さな旅行鞄を提げているのは、これから老いた両親と合流し、北海道へ二泊三日の観光に行くからだ。

 ジンギスカンキャラメル買ってくるね、閉じるドアの隙間から娘がそう言って笑い、私も笑って手を振り返す。

 留守居をするのは仕事のせいだ。決して不仲が原因ではない。若いころよりも大分丸みを帯びて成長した妻を、私は未だに愛している。

 そう思うと、若い頃「結婚後に太るなんて詐欺だよな」――先輩の奥さんを見て、仲間と囁き合っていた自分を張り倒してやりたい。外見がどれだけ変わったとしても、その人を愛していれば、太ったことなど気にならないものだということを、あの頃の私は知らなかったのだ。無論、その後に生まれる大切な宝物のことも。

 しかし――ドアが閉まり、一人きりの部屋に蝉の声が響くと、私は引き寄せられるように窓の外を見た。

 夏の空。果てしない青。緑に茂る公園の向こうには、海が広がっているはずだ。このマンションを買うとき、セールスマンが「天気が良ければ見えますよ」と言ったのだ。

 あれから十年。この窓から、未だに海が見えたことはない。しかし、この横浜で生まれ育った私は、その風景を想像することは出来る。寄せては返す、波の音を聞くことが出来る。けれど、そうしていると、そこにはいつでも一人の少女が――高校のクラスメイトだった彼女の姿が浮かんできた。

 あのとき、友達以上恋人未満であった彼女。その彼女が海辺に佇み、ふとこちらを振り返る。小さく微笑む。そして、まるで真夏の蜃気楼のように消えていくのだ。

 四十を過ぎて、その上結婚している身で、何を気持ち悪いことを、と思われるかもしれない。けれど、夏が来ると、蝉の声が青い空に響き始めると、私は彼女を思い出す。いまも、この大きな町のどこかで暮らしているに違いない彼女のことを。

 私は、空から目を逸らすと、手帳に挟んであった葉書を手に取った。

 「同窓会のお知らせ」。それは今日の日付だったが、出欠のどちらにも丸をつけられないまま、私はそれを出すタイミングを失っていた。いまの彼女に会ってみたい、下心なしにそう思ってはいたが、それは妻を裏切ることになるような気がしてためらっていたのだ。

 けれど、妻と娘は北海道へ出かけてしまった。私は携帯を出すと、幹事の番号を辿った。高島ですが――大学まで同じだった彼の、聞き覚えのある声が応えた。

「久しぶり、結城だけどさ……急で悪いんだが、今日の同窓会、出席してもいいかな」

「結城か」

 彼は驚いたように言うと、「もちろんだよ」と、すぐに続けた。

「どうしたんだ? 誰か会いたいやつでもいるのか?」

 冗談っぽく言う。

「いや、そういうわけじゃないけど」

 私は答えながら、さりげなく、

「誰が来ることになってるんだ? 結構、みんな来るのか?」

「それがな。聞いて驚けよ? お前が来れば、39人、全員揃うことになるかもしれん」

「全員? そりゃすごいな――」

 私は言いかけて、「39人?」と問い直す。私たちのクラスは40人だった。

「知らなかったのか?」

 驚いたように高島は言った。そして、一つの名前を告げた。それは事故だということだった。私は礼を言うと、電話を切った。一人きりの部屋に、蝉の声が響いた。

 空は先ほどと変わるはずもない、抜けるような青をしていた。緑の茂った公園の向こうには海があるはずだったが、それはやはり見えなかった。その風景を思い浮かべるたび、そこにいたはずの少女は消え、波打ち際にはその小さな足跡さえも残っていなかった。

 

 夏の果てに、彼女はいた――。

 

 しかし、ついさっきまでそこにあったはずの少女の影は、いまはもうどこにもなかった。

 私はもう一度携帯を取ると、焦ったように妻の番号を押した。呼び出し音が長く感じた。ややあって「どうしたの? 私、何か忘れ物でもした?」、間延びした妻の声が応えた。

「桃香はいる?」

 私は聞き、妻は「もちろん」と笑った。それから「どうしたの」ともう一度聞いた。

「いや、それならいいんだ」

 私は言うと、電話を切った。そして、窓を開けた。生温い風が吹き込んだ。見えるはずの青い海は、今日もやはり見えないままだった。

 

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