山男の話

「山には魔物が棲んどるんだ」

 

 大柄でひげ面の山男は、声を潜めるようにしてそう言った。

 

「ある男の話だ。山を歩いてるとな、どこからか声がした。おーい――人間の声だ。もちろんあたりには誰もいない。けれど、確かに声がする。

 不思議に思って、おうい、こちらが呼び返すと、おーい――やはり聞こえる。

 誰かが遭難して助けを呼んでいるんだろうか、男はそう思って登山道を逸れ、林へ入った。どこだぁ、男が呼ぶと、おーい、少し向こうから声がする。いま助けてやるからなぁ、そう言いながら進む。しかし、声の主は見当たらない。

 ここらへんから聞こえたのに、おかしいなあ、男があたりを見回すと、おーい、また少し先の方から声がする。男は再び声のする方に歩き出して――ふと登山仲間の話を思い出した。山には魔物が棲んでいて、その魔物は人間の声で登山者に呼びかけ、そうして山に迷わせるのだと。

 そう気づき、男がはっとすると、登山道はもうどこにも見えなかった。やつは必死になって来たほうへ戻った。幸いなことに、時間はかかったが男は元の道に戻ることができた。

 ただ、おーい――男を呼ぶ声は、やつが道に戻るまでずっと山に響き続けていたんだと……」

 

 ぞっ、と鳥肌が立つような間が、話を聞いていた僕らを支配した。

 山は怖い、そう聞いたことはあるが、この山男の話はその想像の怖さに、奇妙なリアリティを持たせるものだった。

 僕は身じろぎもできなかった。ほかのみんなも同じだろう。――いや、ただ一人、彼だけはそうではなかったらしい。おもむろに口を開くと、

 

「イギリスにはキツネたくさんデース。キツネ、人間の声で鳴きマース。ミンナ、ビックリ! 日本にも、キツネいまーすネ!」

 

「スコット……」

 

 山男の辛い視線から目を逸らすようにして、僕は日本語留学生の彼を振り向いた。

 そして、とりあえず彼に教えるべきは、日本語ではなく、「空気を読む」ことだと痛感したのだった。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム