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故郷の夏

 それが夏の盛りであったとしても、川の水はその清らかさを主張するように、とても冷たい。

 

 青とも緑とも言いがたい透明な川底には、くっきりと魚の影が見て取れ、しかし幻のようなその影は、手を伸ばしても決して捉えることはできない。川魚は鋭敏だ。エラもヒレもない人間をあざ笑うように、岩の底へ消えていく。

 

 見上げた空は青く、木々はどこか憂鬱そうな色でさざめいていた。ブウン、静寂を大きなアブが通り過ぎる。しかし、驚いてはいけない。彼らもれっきとした清流の生き物なのだ。

 

「……やるか」

 

 私は自分を奮い立たせるようにつぶやいた。川にそそり立つような大きな岩を見上げる。3メートルはあるだろうか。

 

 子供の頃、私は仲間たちとこの岩の上から飛び降りた。何のためらいもなく、宙に身を躍らせ、弾けるように深い底に飛び込んだ。

 

 私は子供だった。

 

 けれど、その幼き時代に別れを告げ、私は立派な大人になった――そう思っていた。しかし、そんな自信はあるとき突然、揺らいだ。

 

『後藤くん、それがちゃんとした大人の謝罪かね?』

 

 部下のミスに頭を下げた私に、取引先の社長はうさんくさそうな目を向けた。

 

 サラリーマン生活の長い私に、その視線の意味は理解するのは難しいことではなかった。だから、反射的に私は地面に這いつくばった。額を床につけ、もう一度謝罪の言葉を繰り返した。社長は仕方がないというようにため息をついた。私は許された。けれど、奇妙なことに、私の頭には社長の言葉がこびりついて離れなかった。

 

 『ちゃんとした大人』、彼はそう言った。無論、それが土下座を引き出すための言葉だということはわかっている。しかし、私は果たして『ちゃんとした大人』なのか、頭を悩ませる日々が続いた。

 

 もし、私が大人でないのならば、一体何者なのだ?

 

 そんなある日のことだった。深夜のオフィスで頭を抱えていたとき、不意に子供時代の光景が蘇ったのだ。

 

 故郷の清流。ためらわずに飛び込んだあの冷たさ。

 

 私が『大人』なのか、それとも未だ『子供』なのか、あの岩から飛び込めばわかる。日差しに肌を焦がした少年が、そう囁いた気がしたのだ。

 

 オフィスから出ると、外は恐ろしいほどの熱帯夜だった。私はその足で深夜バスに乗り込み、懐かしい故郷へと帰ってきたのだ。

 

「よし、飛び込むぞ」

 

 岩の上ですくむ足を誤魔化して、私はもう一度つぶやいた。ここから飛べば答えが出そうな気がするというのに、体は全く言うことを聞かない。恐怖だけが先走る。

 

 ふと見ると、ごつごつとした岩肌に、私の足は娘のように生っ白く、頼りなかった。だというのに、肌はたるみ、スネ毛はみっともないまでに長く伸びている。

 

 魚影の見える清流。憂鬱そうな緑、青い空。少しも変わらない風景の中で、私はまるで浦島太郎だった。しかし、いたずらに時間を経たからといって、私が『大人』になったのかと問われれば、はっきりそうだとも言えないような気がしてくるのだった。

 

「おんちゃん、危ないで!」

 

 そのとき、楽しげな声が鼓膜を打ち、風が隣を駆け抜けた。と思うと、日差しの中に真っ黒に焼けた少年が飛び出し、そのまま岩を蹴り、宙に飛び出す。大きな水音。

 

「わっほう!」

 

 その後に続くように、何人もの少年たちが次々に飛び込んでいく。

 

「冷てえ!」

「お、鮎がおる!」

「追い込みや!」

 

 先ほどまでの静けさがまるで嘘のように、川は騒がしい輝きに溢れる。暗い緑までが、いまは生き生きと見えてくる。

 

 川面ではしゃぐ少年を見つめながら、私は未だ岩の上に佇んでいた。けれど、もうすくんではいない。

 

 脳裏からは、次々と岩を踏み切っていった、少年たちの黒いふくらはぎが離れなかった。あの若々しさを、かつて私も持っていたということが信じられなかった。そして、なぜ、それはいま失われてしまったのだろうと考えた。

 

 それからややあって――それは決して流れた時間のせいではない、そう結論づけた。

 

 その瞬間、私は岩から踏み切り、宙へ身を躍らせた。たるんだ体は頼りなく落下し、骨が砕けるかと思うほどの衝撃が私を襲った。

 

「おんちゃん、飛んだで!」

 

 少年たちが笑っている。老いたこの身を笑い飛ばしている。

 

 しかし、私の気分は爽快だった。

 

 水の入った耳が痛み、衝撃でめまいがし、老いを笑われてさえいてもなお、私はとても爽快だったのだ――。

 

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