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お守り

 冷凍庫の奥に、それは静かに眠っていた。

 

 それがあたかも忘れ去られたように眠っていられるのは、一重にこの家の主婦、弓子のおかげだ。

 

 弓子の二歳になる息子の拓海は、重度のアレルギーで、医者もさじを投げ出すほどのものあった。それほどに彼のアレルギーはひどく、例えば布団の埃一つでひどく咳き込み、水道水の塩素に触れた肌はすぐにぼろぼろになった。

 

 加えて拓海は食餌性のアレルギーもひどく、パン屋の前を通るだけで、そこに舞う微量な小麦に反応し、みるみるうちに顔を真っ赤にして倒れてしまうほどであった。そんな拓海に微量でもアレルゲンの入った食事を与えればどうなることか――。

 

 だから拓海の食事をつくる作業は、当然ながら恐ろしいほど慎重を極めた。けれど、大事な息子の命を守るためだ、弓子はそう自分に言い聞かせる。

 

 いろいろな食品が陳列されているスーパーに、弓子は拓海を連れて買い物に出かけられるわけもなく、彼女は主に通販で食料を買い込んだ。そして、荷物が届けば、その荷物に付いているかもしれない微量のアレルゲンのために、何度もダンボールを水ぶきしてから部屋の中へ持ち込み、やっと中身を取り出すのであった。その作業はとても面倒だってけれど、大事な息子の命を守るためだ、どんなに疲れていても、弓子は何度もそう自分に言い聞かせる。

 

 だから、このW食品会社製のアレルギー食材完全除去を謳った『冷凍お子さまプレート』も、弓子が注文をし、彼女のその手で冷凍庫の中に仕舞われたものであった。

 

 本当なら、弓子はそれを何時何時でも――今日は風邪気味である、とか、食品制限付きの料理をするのに少々疲れてしまったというほんの些細な理由で――凍ったそれを冷凍庫の奥から取り出し、電子レンジに入れ、幼い息子の拓海に与えてもいいはずだった。けれど、彼女はそれを使うことはしなかった。それは弓子にとって、お守りのようなものだった。だから、彼女は神経をすり減らしながらも手づくりの食事をつくり、部屋は塵一つないほど完璧に掃除をした。

 

 W食品の冷凍食品にアレルゲンが混入したとのニュースが流れたのは、そんなときだった。

 

 弓子は、リビングから聞こえるそのニュースをぼんやりと聞いていた。今日も弓子は朝から少しの埃も立たぬように完璧に掃除をし、食事のメニューを決め、そして大量に届いた荷物の水ぶきがやっと半分ほど終わったところだった。

 

 いつもの彼女ならは、すぐさま冷凍庫に走り、中で眠っているそれが、回収の対象商品なのかきちんと確認するはずだった。もし、拓海がそんなものを口にしたらたちまちのうちに彼は呼吸困難を起こし、そして――。

 

 けれど、いまは水ぶきの途中だった。部屋の中へ入るには、外に出たことで服についたかもしれないアレルゲンを取り除くために、上から下まで着替えてシャワーを浴びなくてはならないし、そんなことをしていたら食事をつくる時間が無くなってしまう。それに何より、彼女は疲れ果てていた。

 

 彼女は冷凍庫に目を向けることなく、せっせと荷物を拭き、玄関を拭き、それから食事作りに取りかかった。

 

 だから、それは回収対象のものかわからないまま、冷凍庫の中で眠り続けていた。そこに拓海を死に至らしめるアレルゲンが入っているのか、それとも入っていないのか、それはまだ誰にもわからない。

 

 いまは、まだ。

 

【1分で読める超短編小説集】(山野ねこ) - カクヨム